アトピーと生活

ほとんど完治したアトピーの事を中心に

くるくるくると回る命について

命は回って回って回りまくるのだ。それがどのような形であろうとも、救いである事は間違いない。6月4日。もう毎年の恒例となっているお墓まいりに行ってきた。青山フラワーマーケットで向日葵や紫陽花、梅の花などのおよそ仏花とは言えないような花をいくつか選んで買った。多くの色を含むその花束を抱えてショーツにTシャツにサンダルというラフな格好で大宮駅を歩く僕は側から見れば誰かのお祝いに行くように見えるのかもしれない。毎年色鮮やかな花を3000円分程買いお墓に行く。お墓の前に立っていつも思うのは「今年もよろしくね」というものと「元気でいるか」という事で、僕は死という概念が分からない。はっきり行ってお墓参りに行く理由すらも良くわかっていない。ただ思うのは、沢山の花を見て彼女が少しでも喜んでいたらいいなという事だけ。漠然と生に含まれる死という概念が、急に何もない虚無的な空間ではないだろうと思っている。いつものようにお墓参りを済ませていると、彼女の祖父母に会う。簡単な世間話をして、足早に帰って行く祖父母を見送る。そろそろ帰ろうかなとか思いながら、花で埋め尽くされて回りの墓石よりも少し浮ついて見える彼女のお墓を眺めながら煙草を吸っていると彼女の妹とその4歳になったばかりの娘がやって来る。最初は僕が誰かも分からなかった妹も、僕が誰かであるかに気付き驚きと笑いが入り混じった表情を浮かべていた。僕は跪き、彼女の娘に向かって両手を広げる。そこに全くの警戒心を抱かずに飛びついてくる小さな身体。僕は彼女をしっかりと抱きかかえる。何才になったのかと聞くと、右手の指で4を示しながら4才になったという。数年前は意味のあるような言葉を一切話すことも出来無かった彼女が自分の言葉で僕に語りかけてくれる。生きているなと思った。死んでいった彼女と、これから死に向かい生き続ける彼女。2人に直接的な生と死に係る関係性はないのだろうけれど、何か象徴的であった。彼女の断片を含むものが毎年少なくなってきているように感じていた。僕たちは忘れる生き物だし、生きていれば記憶の上塗りをしてしまう。風が吹いて砂で描いた何かの記号が、消えて無くなってしまうように。地上から彼女の記憶が無くなってしまうのかもしれないと焦っていた。それをそんな事ないよと言ってくれたのは未だ4歳の彼女の存在そのもので、僕は彼女によって世界に繋ぎ止められているような気さえした。人が死んだ後になにが残るか。その後に残るのは生きている人間だけで、それぞれが死んでいった人間の小さな破片を胸に抱えて生きている。だからきっとその小さな破片を時々みんなで繋ぎ合わせて、彼女にまた会おうとしてしまうのだと思う。