アトピーと生活

ほとんど完治したアトピーの事を中心に

言葉に感情が込められない

久しぶりに会った人と話をしていて、会話の中で何度も感情が無いねと言われた。相手の話を聞いて「可愛いですねー」とか「いいですねー」とかいう僕の言葉には感情がないと言われた。究極的には湯葉みたいに薄っぺらいというパンチラインを食らってめちゃくちゃ笑ってしまった。呂布カルマかよ。言葉のチョイスがナイスです。

そんな事よりも感情がないという話を思い返すとこれまでの人生においても、頻繁に僕の言った言葉について「絶対思ってないでしょ」とか「嘘でしょ」とか言われている事に気付く。よく笑うのに全く感情が乗っていないと言われた事もある。なんだよ感情って。今時感情がない人間になる方が難しいだろ。時計仕掛けのオレンジじゃないんだから。そんな事を思っても事実として僕の言葉には感情が載っていないと思われているのだ。人間の存在なんて自分ではなく他人によって縁取られて形成されていくものなのだからそれはきっと間違い無い事実なのだろう。感情が載っていないと言われて、僕が先ず思ったのは感情の載っていない言葉を話す人なんてこの世界にいるのかという事だった。僕が好きという時は本当に好きという時だけで、嫌いという時は嫌いだと思っている時だけだ。好きな人に向かって嫌いだと言ったこともないし、美味しくないご飯について美味しいと言ったこともない。眠い時は眠いというし、職場でも上司が間違っていると思う時は間違ってるよと言ってしまう。それが普通だと思っていたので僕にはそもそも感情の載っていないという言葉が分からないのだ。全ての好きには好きという感情が載っていて、それでみんなキスをするものだと思っていたけれどそうでないことに気付く。感情の載っていない言葉という存在を知っている人はきっと今までに感情の載っていない言葉を口に出したことがある人なのだ。或いは向けられてきたかだ。僕に向かって誰かが言った言葉にも、言葉の意味とは全く違った思いが込められていたかもしれないという事に気づいて呆然とする。悲しいとかショックとかそういう感情から来るものではなく、合理的でないし効率が悪すぎると思ってしまう。言葉の本質は相手に正確に自分の状態や思いを伝えることにあると思っていて、その本質を根底から覆すように言葉を使うのは全くもって合理的でない。好きなら好きと言えばいいし、嫌なら嫌と言えばいいのだ。文脈から言葉の裏に込められた意味をつかむ事は出来るけれど、それはもっと親密であったり密度の濃い関係性の場合において使うものではないのだろうか。例えば愛が関係性に絡みついている場合とか。そもそも言葉は言葉として急に生まれてきて声帯を震わせて声になるものではなくて、気持ちが言葉になって言葉が相手に伝えるために声へと変わるのだ。言葉は誰でも扱えるように出来ている。小さな子供だって簡単に話すことが出来る。それは自分の状況を相手に伝えないと生きていけないからだ。お腹が空いていればお腹が空いたと言わなければ餓死してしまうし、呼吸が苦しい時には苦しいと言わないと窒息してしまうからだ。本来簡単な仕組みで出来ているはずの言葉を裏があるとか思って複雑なものにしてしまうのは辛くないですか。生きづらくないですかそんな複雑な世界。少なくとも僕はそんな複雑な世界で生きていたくない。何しろ面倒くさすぎる。僕が愛していると言えばそれがどんなに単調な抑揚の無い声でも、その言葉は僕の思いから産まれたものなのだからその言葉には純度100パーセントのピュアなラブが詰まっているのだ。信じてほしい。僕はバレない嘘と笑えない冗談を言うのは美徳に反すると思っている。それでも僕はこれからも感情が無いと言われて生きていくのだと思うのだけれど、僕はこれからも僕の中で生まれた思いだけを言葉にして声にして相手に伝えていきたいと思うのだ。自分の言葉が純度100パーセントのピュアな言葉で無くなった時にはもう僕は僕の中で終わりだと思う。