アトピーと生活

ほとんど完治したアトピーの事を中心に

10年噛み続けたガムを捨てた日に割れたデュラレックスのグラス

日々の生活の中で、無音でいることなんてほとんどないので、僕はいつも少しづつ自分がすり減っていくように感じる。電車のホームのアナウンス。デスクで鳴る電話の呼びだし音。知らない人たちの会話。そういう音に溢れてるので、僕は時々目を瞑って自分の身体がすり減っていくその様を想像する。目に見えることのない小さな小さな音の粒子が、僕の身体を傷つけずに通り過ぎて行く。細胞と細胞の間を、僕よりも敏感で優秀な僕の身体に潜んでいる細胞たちにばれないように、通り過ぎていく。通り過ぎた後には小さな穴が空いて居て、それは誰も気づかないような穴なのだけれど、その穴の繰り返しで僕の身体はどんどん消耗していってしまう。そんなことを考える。そんな事を考えて閉じて居た目を開くと、そこには穴だらけの世界があるわけでもなく、今も昔もずっと同じような世界がそこにあるだけだから、僕は少しだけ嫌になって、噛んで居たガムを駅のホームの淵に立って、2本のレールのちょうど真ん中に吐き捨てる。レールが音を立てて振動する。遠くから鉄のレールと、鉄のタイヤが減速のために磨耗する音が聞こえる。レールの振動が大きくなり、電車のライトが近くに見えるようになる。僕はいったいなんて事をしてしまったのだと、そのライトの大きさを見て理解する。妄想か自己嫌悪か分からない自分の身体がどうかとか、音の粒子がどうかというポエムのせいで、大切なガムをレールの上に捨ててしまったことを後悔する。大切なガムなのだ。僕が初めて好きになった女の子が中学2年の合唱コンクルールの帰りのバスの中で偶然隣に座った時に彼女がくれたミントの板ガム。僕はそのガムを噛みながらバスに乗って中学校まで行き、ガムを噛みながら自転車に乗って家に帰った。夕飯の前にティッシュに包んで捨てようとしたガムを何故かデュラレックスの強化ガラスのコップにいれて、お湯を注いだ。なぜそんな事をしたのかは分からないけれど、それは習慣になった。朝食を食べるとコップからガムを取り出して口に入れる。さすがに一晩お湯につけておいても硬くなっているので、熱いお茶を口に含み、ガムを柔らかくする。そして同じ板ガムをもう一枚口にいれて昨日の朝よりも小さくなったガムと口の中で一体化させる。夜になれば夕食の前にお湯を入れたデュラレックスのコップに入歯よろしくひたす。こうして10年近く継ぎ足し継ぎ足しでやってきたのだ。さっきまで僕の口の中にあったガムには、当時の彼女がくれたガムとはもう全く別のものになっているのだろうけれど、それは僕だって、彼女だって同じだとも思う。僕だって10年前の僕の身体を構成していた細胞はもう僕の身体の中にはいないし、彼女だってもう全く違う生き物だと言ってもいいくらいに中身も外見も変わってしまった。それでも僕はガムを噛むし、彼女のことを未だに愛している。そんなことを思いながらホームに入ってきた電車に轢かれてしまったガムを見ていた。捨てなければよかったな、電車がホームに入ってくる前に飛び降りて救出すればよかったな、電車が発車した後に線路まで降りてガムを救出することだってできるなとか考えながら電車のドアが開くのを見て居たけれど、この電車を逃すと次の電車が15分後になってしまうので電車に乗って唯一空いて居た優先席に座って家まで帰る。10年間よりも15分家に先に着くことを優先する自分に驚く。家の最寄り駅について、帰り道の途中にあるスーパーでケーキを買う。レジの横においてある板ガムを見て少し迷って買わないことにする。ガムのことはもう忘れよう。家について、奥さんにガムの話をすると残念だったねといって菊の花を一輪ダイニングテーブルに活けてくれる。「でも正直、あれ気持ち悪かったから毎晩捨てて新しいガムに取り替えていたんだよ。いくら私のことが大好きだからって、私だってあげたことを忘れてしまうくらい昔のガムをいつまでも噛んでいるなんてやっぱり君はおかしいね」と彼女は少し困った顔で僕に言うので僕はびっくりしてもう捨てようとしていたガム用のデュラレックスのコップを床に落としてしまう。ガッシャーン。強化ガラスはガラスに特別な圧力をかけているので、そのバランスが崩れると一気に粒子のようにバラバラになる。大きな破片ではなく、細かいガラスの粒子になる。床に散らばったガラスの粒子は光を反射してキラキラと輝いていてとても綺麗だなと僕は思う。外見は変わってしまったけれど中身は変わらないものと、外見は変わらないけれど中身が変わっていたもの。奥さんがキッチンの戸棚からデュラレックスのコップを取り出してきて、床に散らばった粒子をコップに集め出す。あっと僕は声にならない声を出して粒子を拾うのを手伝う。コップ一杯のコップの粒子。光を閉じ込めたように輝くそのコップの美しさと、一輪の菊の花。もう忘れたガムの事と、今も昔も変わらない好きという感情。